ドライバー不足や物流形態改善に 自動車メーカーとして何ができるかを考える
社会に貢献するクルマづくりを経営の基本に…
会社の力を結集して次世代に変化をもたらす提案を
日野自動車は2017年6月27日付で、市橋保彦氏が代表取締役会長、下義生氏が代表取締役社長に就任する役員人事を発表した。本誌ではさっそく下新社長へのインタビューを行った。下新社長は1959年1月28日生まれ、58歳の若手新社長の登場である。日野HPのトップメッセージでは「人、そして物の移動を支え、豊かで住みよい世界と未来に貢献する」「人や物の移動を取り巻く環境の大きな変化にいち早く対応し、さらなるイノベーションを追求していく」「先進技術開発を推進するとともに、ユーザーの期待を上回る価値を提供する」と述べている。今回は“変化に対応して社会に貢献して行く”という下新社長の人となりを中心にお伺いした。
新任の日野自動車、下義生代表取締役社長
下家のルーツは山口県の岩国?覚えてもらいやすい名前に感謝
◇秋林路 日野自動車の歴代社長のみなさんには東京トラックショーを含めいろいろお世話になっています。下さんは、湯浅さん以来の日野プロパーの生え抜き社長になりますね。
◆ 下 そういうことになります。日新さんのトラックショーは業界活性化に大きく貢献した展示会だと認識しています。デュトロを発売した時には、各車体メーカーさんにもご協力いただき、東京トラックショーには確か30台以上のデュトロを展示させてもらった筈です。
◇秋林路 2011年のトラックショーですね。リーマンショック直後の厳しい時代でしたので、主催者としても積極参加を歓迎しました。ところで、新社長の下(しも)という苗字はとても印象強いお名前ですが、由来は…。
◆ 下 ちゃんとルーツを辿ったわけではないのですが、下という苗字はもともと山口県の岩国らしいです。以前、祖父に岩国城に行くと下家が寄贈したものが展示されていると聞いていましたので、それを思い出して、今から25年ぐらい前に岩国城に行ってみました。すると寄贈者の中に確かに“下…”と書いてありましたので、たぶん岩国辺りが下家の発祥だろうと思っています。それと、ホントかどうかはわかりませんが、戦に負けた武士が川下の方に逃げたから姓を“下”にしたという言い伝えもあるようです。でも、結局は負けてるじゃないか、という感じですね。(笑)
◇秋林路 私はいま秋林路をペンネームにしていますが、本名は横路(よころ)です。子供のころは「ヨッコロ」と鈍間(のろま)呼ばわりされるので、この苗字が好きではありませんでした。
◆ 下 ボクも自分の姓は嫌いでしたね。上下の下ですし、下種(げせわ)とか、下ネタとか…あまりよくない表現に使われることが多いですからね。それに、下「しも」を連続読みすると「もしもし」になって、のろまなカメのイメージになるんです。でも、簡単ですから小さい頃から自分の苗字を漢字で書けました。皆がまだ漢字が書けない小学校低学年の時に、平仮名ではなく漢字で名前を書けました。それはそれで自慢でしたから“下”で良かったなと思いましたね。
それと、父親の姓は当然“下”ですが、母親の旧姓が高宮(たかみや)なんです。高貴な名前ですよね、どうせなら私は高宮の方が良かったんですけどね。(笑)
でも、大学生になり、社会人になってから気が付いたのですが、皆に名前をすぐ覚えてもらえるんです。海外の仕事でも、ニックネームを付けなくて済みました。Shimoさんと皆が言ってくれて、とてもフレンドリーに接してくれました。今となっては“下”という名前に感謝しています。
中国語だと姓の“下”は「シャー」、名は“義生”は「イースン」と発音しますから、シャー・イースンです。中国では「義」という文字は非常に良い字で、さらに「生」が付いてる。つまり、義に生きるという意味で中国人からは高い評価をもらいました。ただ、シャーの発音はいいけど字体がダメです。出来ることなら「夏」にして夏義生だと発音も同じだし、中国人に言わせると「その名前なら最高」ということでした。中国向けにそういう名刺を本気で作ろうかと思ったほどです。(笑)
日野プロフィア FR
日野レンジャー FD
日野デュトロ ハイブリッド ワイドキャブ ロング
乗用車ではなく最初からバスとトラック社会とのつながりをテーマにした勉強
◇秋林路 ご出身は東京ということですが…。
◆ 下 私の両親は福岡生まれで、実はボクも福岡で生まれたんです。ただ、育ちはずっと東京なので出身は東京にしています。
◇秋林路 大学は早稲田の理工学部ですが、若い頃から物づくりに対しての志があったのですか?
◆ 下 クルマには興味がありましたが、工作的なことが好きだったかというと、この分野はそれほどでもなかったですね。物事をロジカルに考えるのが好きでした。小さい頃から理屈っぽいと言われていましたので、親からしても嫌な子供だったと思います。数学とかそっちの方が好きだったので理工学部に行ったというのが本音です。
でも、早く社会に出たかったので大学院に行く選択肢はありませんでした。ボクは1981年(昭和56年)の入社なのですが、当時は就職環境が非常にいい時代で、早稲田は結構いい大学だったので…いや当時の話ですよ、正直どちらの自動車メーカーにも入れたんです。ボクの同期も何人かがトヨタや日産などに入っています。早稲田は東京の大学なのでやはり日産が多かったですね。それに「技術の日産」というキャッチフレーズもありましたから、就職先としては人気でした。
ただ、ボクは乗用車には興味がなくて、当初からトラックやバスをやりたいと思っていました。私の父親は銀行員であまり語らない人でしたが、ボクが大学3年生の時に、「そろそろ就職を考える頃だ。私は銀行員になったが、それは男子一生の仕事ではないと思っている、だからお前は男子一生の仕事に就いてくれ。」と言ってくれました。生涯で父がボクにそういう話をしたのはそれ1回だけでしたね。
それで、自分なりに考えて、乗用車だとどうしてもいち個人が満足するだけのステータス的なものになる訳で、そうではなく、社会に貢献するトラックやバスの専門メーカーに行きたいという思いが強くなりました。それと、もうひとつは業界トップの会社に入れば新しいものを常に提案できる、2位や3位の会社だと、どうしても1位を追いかける形になる、と考えました。そう考えると日野だよね、ということでボクは日野しか受けていないのです。
最初から日野という会社に興味があって、大学の先輩からも「いい会社だよ」と聞いていましたからね…。実は、日野に入社してからはじめてトヨタと強い関係があるのを知ったんです。(笑)
とにかくそういう思いで日野に入ったのです。勿論、社長になるとは思ってもいませんでした。これまで、いろいろな仕事をしてきましたけど、辛くて仕方がないということは今まで全くありませんでしたね。
◇秋林路 モータリゼーションと共に育ったわれわれ世代としては、自動車と言えば乗用車で、トラックの世界はあまり想像できませんでした。ても「男子一生の仕事をしろ」と言ってくれたお父様の言葉があったからこそ今の下社長があるのかも知れません。
◆ 下 先日の記者懇談会(8月号20P参照)でも話しましたけど、基本的に社会とのつながりの中で、自分のやっている仕事が活かせる、というのが自分としても満足度が高いわけで、乗用車のユーザーさんがそのクルマに満足するのとは意味合い的に少し違うとボクは思っています。トラックとかバスを使って頂いて、物流とか、人の移動とか、その先で社会に貢献できる、そう思って日野に入ったわけです。今でも、その考えは少しも変わっていません。
◇秋林路 そういう志しを持って入社した会社でトップになれたのは幸せなことです。中央大学院でも勉強されていますよね。
◆ 下 社会人になって40歳前後で中央大学院総合政策研究科に行きました。それも社会に貢献したいという思いがあったからです。
当時は環境問題が大きくクローズアップされていて、トラックやバスという車両単体での対策はわれわれメーカーの努力で出来る話ですが、国や地域、街という断面で見た場合には、いくら車両が良くなっても、例えば渋滞が発生したら発進と停止が繰り返されてどうしても排ガスが問題になる。なので、交通政策全体をもっと根本から勉強したいと思って入学したんです。
学費は自費でしたから会社には報告していませんでした。当時ボクは部長職でしたが、仕事の都合で水曜日の夜と土曜日まる一日の週2回通いました。面白かったですね。生徒の半分が中央大学から上がってきた学生で、もう半分が社会人です。総合政策で、ボクは自動車政策でしたが、ある人は原子力政策、ある人は男女格差の問題をやっていたりで…、すごく幅が広いわけです。そこでディベート(討議・討論)をやったり、理系の人間はあまりやったことがないようなことも出来たので、自分としてはいい勉強ができたと思っています。公共政策論なので、全員が社会との繋がりの中での何らかのテーマで議論をする。幅広いテーマなので本当に楽しかったですね。
本来は2年間なのですが、ボクは1年ですべての単位を取りました。それで、修士論文を書く段になった時にアメリカ駐在になって、ずっと休学していたんです。そうしたら、「もう休学はできない、退学しかありません」と言われて、仕方なくアメリカで修士論文を書きました。最後に論文の面接があるのですが、それがちょうど日本に帰国するタイミングと一緒でしたが、論文の内容があまり良くなかったので、わざとスーツケースを持って、まさに「今帰国してきました」みたいな感じで面接に行きました。結果、教授のお涙頂戴作戦が成功して卒業させていただきました。(笑)
今回、社長になる話が出たときに指導教授から連絡があって、当時一緒に勉強した仲間たちがお祝いをしてくれました。大変嬉しかったですね。中には弁護士になった人もいますし、原子力をやっている人もいました。
何よりも人材育成が大事
営業経験ゼロの人間が北米に赴任ボデーメーカーとの協調関係を重視
◇秋林路 とても良いお話ですね。海外の経験はアメリカ以外にもあるのでしょうか?
◆ 下 海外駐在はアメリカだけです。それが40歳過ぎで、それまでは技術と商品企画をやっていました。
バスのセレガの製品開発をやっていた1999年頃に、アメリカのボンネットトラックのプロジェクトも担当しました。それで、2002年の後半に「君がプロジェクトをやった商品を売りに行け」ということでアメリカ駐在になったのです。それまで営業経験はほぼゼロだったのですが、ポジション的には副社長でナンバー2として米国日野販売へ赴任しました。車両のオーダーだとかお金のフォローアップだとか、まだ実務が殆どわかっていませんでした。しかも、三井物産と共同出資の米国日野に現地の企業が参画して、それでジョイントベンチャーの組み換えも現地で担当しました。それほど知識もないし、英語ですし結構大変でしたね。でも、とても良い経験でした。
それにしても、当時の日野の役員の人たちは無謀だったと思いますよ。だって、殆ど営業経験ゼロの人間をナンバー2でアメリカに行かせたわけですからね。当時の米国日野の社長には大変ご迷惑をおかけしましたと思っています。ただ、その時に、現地のディーラーやお客さんの所にも行っていろいろな話を聞けたのは勉強になりました。
◇秋林路 当時から相当有望視されていたのだと思います。少しだけ国内でのディーラー経験もお持ちですよね。
◆ 下 1994年頃に国内の販売会社さんに1年間行かせてもらいました。ボクは岡山日野さんに世話になりました。販売会社の若手営業マンの車に乗って、1日十数軒もお客さんを回るのですが、その時に営業はこんなに大変なんだ、と実感しました。通って通って…、1年通ってやっと見積書を出せて頂けるとか、そういう現場でしたからね。それまでは「ボクたちがこんなにいい商品を作っているのになぜ売れないんだ」と思っていましたが、その経験をしてから考え方も変わりました。
ボクが回っていた94年から95年頃は、大型車のGVWが20トンから25トンに規制緩和された時で、われわれも後軸にファイングリップ(駆動力補助デバイス)とか、そういう装置を付けたりしていました。販売会社の営業マンからするとボクのような技術の人間が来て良かったと思ったらしいです。
でもね、ボクは会社に入ってからずっとバスをやっていて、トラックはまったく知らない。それで、ほぼ一夜漬けのような猛勉強をしまして、「入社以来トラックを担当していて技術もすべて知ってますよ」みたいな顔をしていました。(笑)それでも、若い営業マンが兄さん的に慕ってくれたのは有り難かったですね。
◇秋林路 アメリカはドライだから商品が良いか悪いかだけで判断するようなところがあると思いますが、日本は運送会社のオーナーが独自の考えをしっかり持っているので、物の良し悪しだけの判断だけじゃないですよね。これは日本独特の商習慣なのでしょうか。
◆ 下 日本は永年の信頼関係が重視されますね。最近は日本も経営者が二代目とか三代目に代替わりして、ドライな感覚も出てきていますが、今でも昔ながらの感覚をお持ちの経営者の人は沢山いらっしゃいます。「あの時日野には世話になった」とか…、逆に一度嫌われたら、いくら良い製品を提供してもダメだとか…。
◇秋林路 事前にお客様の人間関係を調べて営業に行くとか…従来の営業スタイルも存じ上げていますが、最近は経験豊富なスペシャリストの営業マンが少なくなったように思います。例えば、あの運送会社のオヤジさんはこういう性格だから、こういうトラックを提案すれば興味を持ってくれる…とか、上物にも精通した営業マンが沢山いらっしゃいました。その点が最近少し変わってきたように思います。
◆ 下 確かに、スペシャリストの営業マンが少なくなっているのは事実です。セールスポイントというか、お客さんに訴えたいセリングポイントがあっても、それをうまく伝えられるのか、という問題もあると思っています。その部分が弱くなっているのは残念です。
それで今、われわれが一所懸命やっているのが営業マンのトレーニングだとか、上物も含めての架装メーカーさんとの繋がりを大切にして、われわれのシャシにどういうボデー架装をすればお客さんのニーズに応えられるかを考えています。ただ、これはゴールがあるわけではなく、積み重ねでやって行くしか方法はないと思っています。
そういうセールスの部分もありますが、これからはメカニックの強化も必要です。
日野セレガスーパーハイデッカ
日野セレガハイデッカショート
日野セレガ運転席
ドライバー不足への対応もテーマに社会を変えて行くための種を蒔く
◇秋林路 人材不足でメカニックのレベル向上は各社が悩んでいるところです。ユーザーも車を選ぶときにアフターも気にしています。ランニングコストや省エネがどうだとかをユーザーも研究していますからね。そこにメーカーとしてどうやってユーザーに利益を出してもらうか。その点はメカニックのレベルの問題が大きい。そのトレーニングも大切です。
◆ 下 メカニックの確保とレベルアップもそうですが、ドライバーの確保も重要です。これは運送会社さんの話ですが、ドライバー確保のためにトラックメーカーとしてやれることは何かないのか、ということを今後も考えていきたいと思っています。
◇秋林路 そういう感覚をお持ちの社長が現れたのはトラック業界全体としても素晴らしいことです。
◆ 下 われわれは羽村にお客様センターという施設を持っています。あの施設をもう少し拡大して、トラックドライバー養成学校が作れないだろうか、とか…。いや、社長としてこういう勝手なことを発言すると、社員の人たちは大変かも知れませんが、例えばそういうことです。思いはそういうことで、冒頭にも申しましたが、われわれはトラック・バスのビジネスを通じて社会に貢献して行きたい、そういう意味からすればドライバー確保もメーカーとしてやって行くべき課題です。
それもひとつですし、人命に係る安全で先進的な技術が開発されたならば、独占するべきではなくていすゞさん、ふそうさん、UDさんとも皆が共通で使って行くべきなんです。事故を予見して止まるトラックがあれば、それは絶対的に良いわけです。トラックの加害性も気になるわけで、ぶつかったときに何の関係もない乗用車の人が亡くなるようなことは絶対にあってはならないと思っています。
◇秋林路 これまではそんな技術もなかったし、ドライバーの技量に頼るしかなかった訳です。ベテランならブレーキを踏むタイミングも経験値から判っていますが、すべてのドライバーがそういうことではない訳ですからね。でも、いまではセンサーもGPSによる位置情報も正確だし、その他にもいろいろと安全機器も進化しています。近い将来、超ベテランのプロドライバーでなくても安全に車両を動かせる、そういう時代が期待されています。そういう物づくりの進化があれば、ドライバー確保にもつなげられることになります。
◆ 下 トラックもオートマ限定免許があってもいいかも知れませんね。
それと、ドライバーさんが荷降ろしをやらなければならないケースも数多くあります。その意味からも、物流全体の形態をもう少し改善できないだろうかと思いますね。そうすれば女性ドライバーもこの業界にもっと入りやすくなると思います。
◇秋林路 パレチゼーションで合理化しているように見えても、末端の現場に行くとドライバーが手荷役しているケースも多いわけです。物流形態を変えていく為には荷主も含めて総合的に改善しなくてはならないでしょうね。
◆ 下 物流全体を俯瞰(ふかん)して見ると、合理化されている部分もありますが、ボトルネックになりそうなところとか、効率的じゃないところもあると思います。今の大きなボトルネックはドライバー不足だとボクは思います。運ぶものは減らない、運ぶためのトラックもある、でもそのトラックを運転する人がいない、という状況になると思っています。そうなると、ドライバーの方々の仕事量をもう少し制約するとか、別の所でも荷役をサポート出来ないだろうか…とか。そう考えると、車づくりだけでは終わらない話になります。その部分の勉強もしていますが、いろいろなユーザーさんの声も聞かせていただいて、われわれの視点でできる事は何だろうか、と考えていきたいですね。勿論、われわれができる事には限界があるかもしれませんが、ぜひとも車づくりだけでなく物流全体の中でお役に立てることをやって行きたいと思います。
◇秋林路 荷主は運送会社にトラックで荷物を運んでもらっているわけですから、荷主も含めてトラック協会や自動車工業会なども一緒になって考えていくべきです。そういう懇談会があればいいと思っていますので、本誌の立場でも検討しています。最近、運送のオーナーから「われわれの声がメーカーにまったく届いてない」という声も出ています。
◆ 下 メーカーはどうしてもトラック運送業者さんと話すときに、何を言われるだろう、と思っちゃいますから、もう少しフランクなところからスタートすればいいと思います。
ボクが社内で言っているのは、常に変化していかないといけない、そのためには新しいことにチャレンジしていく姿勢が必要だし、逆に言うとそれが求められていると思っています。ドライバー不足も含めて、物流形態の改善とか、新しい技術としての自動運転、安全技術、EV化の話もあるでしょうし、従来の成功体験だけで生きていたとしたら日野自動車はあっという間に沈んでしまうかもしれません。
◇秋林路 そのためには、長期展望で物事を考えていかなければならないでしょうね。
◆ 下 われわれはトヨタの系列企業ですので、燃料電池とか、正着技術(バス乗降時のバリアフリー化)だとか、バスに関してもオリンピックに向けていろいろと進めていかなければならない部分も多くあります。
ここで大事なのは、オリンピックだけで終わらせる技術ならやる意味がない、ということです。東京に本拠地のある日野自動車が東京オリンピックで何を発信すべきか、それがちょっと弱いんです。でもこんなチャンスは滅多にないわけで、打上げ花火で終わらせないためには、その先にある自分たちの世界観を持った上で、例えば燃料電池バスを将来的にどうして行くのか、ということなんです。
パラリンピアンの人たちも大勢来日されますので、車椅子の方々の移動はどうか。あれだけ多くの人たちの移動をどうやって行くのか、それに対してわれわれがどういう交通手段を提供できるのか、それがその後の社会にどのように根付いて行くのか、そういう事まで考える必要があります。
ボクらは物を作って行く立場で、社会システムづくりは国や都がやる話ですから、東京都などとの話し合いを積極的にしなければならないんです。でも、民間の企業はそういうことが得意じゃないし、言ったら最後までやらなければならないと考えてしまうので、結局は何も言わないんです。言わないでやるというのは日本的なんだけど、ボクは言ってからやる、有言実行でないと経営はできないと思っています。そういう意味では、ボクが社長でみんなは困ってしまうのかもしれませんが、言っていることがみんなと大きく違うなら、社長になったばかりですが、潔くさっさと身を引いて次の人に社長を譲る気持ちです。
自分の在任が何年かはわかりませんが、その先の社会に貢献するための種をいま蒔いていかなければならない、そう考えています。ボクが在任中に刈り取れることは少ないかもしれませんが、でも必ず10年後とか20年後に活かすことができるものになる。その種を蒔くのがいま必要だと思っています。
◇秋林路 前回のオリンピックの時に新幹線をはじめとした鉄道、そして高速道路などのインフラ整備をやって、それがその後の経済発展に大きく貢献しました。2020年に何をすべきか、それはその先の未来を考えて種を蒔くべきだと思います。
◆ 下 2020年にボクはちょうど定年になります。それで、少人数ですが社内で“2020の会”というのを作ったんです。で、そこでは自分が会社生活を終わる頃にどういう社会になっていて、そのために今の会社生活の間に何ができるのか、を考えています。
実は、定年という事で2020年というのは相当昔から意識していたんです。まさかオリンピックが来るとは思っていませんでしたし、しかも、このポジションになるとも思っていませんでした。そういうことで、自分がイメージしていた2020年への思い入れが強いので、そこに向けて、会社の力を結集して次の社会を変えられるような提案をぜひともしていきたいと思っています。
◇秋林路 2020年に向け社会貢献できる日野自動車の提案を大いに期待しています。本日は有り難うございました。
対談を終えて本誌・秋林路(左)と下義生新社長
対談を終えて
本誌の編集に参画した昭和48年以降、日野自動車の歴代社長には全てお会いしている。平成13年、湯浅浩氏に替わって、トヨタ自動車から蛇川忠暉氏が就任した際の社長対談では明らかに“日野文化”との違いを感じたものである。そして、久し振りに日野プロパーからの社長就任なので、その人となりを知りたいと対談に臨んだ。第一印象は「気さくな方」というイメージである。それでいて自らの考えを覚悟を決めて述べる、所謂「腹が座った人物」である。
ユーザーとメーカー間の意思の疎通を図るために本誌が荷主も含めて懇談会参加を呼びかけたい、と提案したところ「まず食事会が出来るといいですね」(下社長)と応答。これが“日野文化”なのである。
ディーゼル車は消えるのか
欧州で、将来のディーゼル及びガソリンエンジン車の販売禁止が報じられている。商用車はこの中に含まれるのか。注目している読者も多いと想像される。今回の報道では見えない深層を紐解いてみよう。
ユーザーが造り始めた特殊トレーラー大日運輸の同業他社に口コミで拡販
今年6月に開催した2017TTSショーに㈱ダイニチカンパニーから伸縮式の底床重量トレーラー「伸び台車」が出展された。トラクタと連結するキングピンが25cm昇降する。これによってロードクリアランスの厳しい路面でも走破が可能となる優れもの。実は、ダイニチカンパニーは過去にも一度トラックショーに出展したことがある。その出展車両を入社して最初に設計したのが、創業者である大八木宏侑会長のご子息、大八木三雄氏(大八木一寿社長の実弟)である。今回は、ダイニチカンパニー本社に大八木三雄氏を訪ねた。
2軸キャリヤで最大の海外向けラフテレーンクレーン新型ラフテレーンクレーン「GR-1200XL/1100EX」発売
㈱タダノは、このたび2軸キャリヤのラフテレーンクレーンでは最大となる海外向けラフテレーンクレーン(Rough Terrain Crane)を2017年8月24日に発売した。発売機種は、GR-1200XL(北米および中南米市場向け)、GR-1100EX(北米、中南米市場地域以外)で、最大吊上げ荷重はGR-1200XLが120ショートトン、GR-1100EXが110トンとなる。ちなみに、ショートトンは北米市場で一般的に使用される重量単位で、日本では1ショートトン=0.907トンで換算される。
東京を世界に誇れる文化都市に2020オリンピックは絶好の機会
本誌は過去に3回に亘ってトラックショーとの併催で、「商業者デザインコンテスト」を開催した経歴がある。当時も経済が好調に推移して、物量が熟せなくなるほどトラックのドライバー不足が深刻で、少々コストをかけても見栄えの良いトラックを導入し、ドライバーの定着を図る活動が行われていた。最近は少子化高齢化に加えて、若者の車両離れもあり、ドライバー不足は更に深刻である。そこで、オートボデープリンターを提供する(株)エルエーシーでは、運送業界と東京デザイン専門学校に呼びかけて、産学共同プロジェクトを立ち上げ、デザインとラックの普及促進を図ってきた。本誌もこの活動には注目しているが、この取材を通じてお目にかかったのが、東京デザイン専門学校の戸田吉彦先生である。なんとか一度お話しを伺いたいと思っていたが、幸運にも2017TTSショーにご来場くださり、その機会を得ることが出来た。会食を兼ねた懇談は2時間余りに及び、きわめて充実した濃い内容となった。