「ラッキーな人生」と言われるが…強靭な精神力の小川由行会長
筆者の記者生活は大学3年からなので約50年。これまでに一体どれだけの方とお目にかかったことか。その数を競ってもあまり意味はないが、記憶に残る出会いは意外に少ない。今回訪ねた小川建機(小川貴之社長)創業者の小川由行会長は、私と世代が近いことや、生まれ育ちに共鳴するところが多く、終生忘れることの出来ない取材になった。太平洋戦争で生き残った筆者の父は、広島の原爆を潜り抜けて帰郷、筆者と妹が生まれた。警察官上がりの父は曲がったことが大嫌いで、子供には倫理観を徹底的に叩き込んだ。筆者が悪の道にハマらなかったのは親父の家庭教育が影響しているように思う。小川会長の父君も子供達が自立出来るように、経済の仕組みを体験的に教え込んだようである。子供心に憧れたブラジルへの夢は社会に出る前に霧散し、自動車整備工場に入るが間もなく怪我で左目を失明する。金を貯める為にダンプの運転を始めるが、事故を起こして腕を骨折する。しかし、そのどん底でクレーン事業に活路を見出して大成功を治める。このサクセスストーリーを小川会長は「災い転じて福となす」と笑い飛ばす。70歳近くなった今でも「他人様の二倍働け」という父君の言葉を実践している。小川会長は世にも稀な孝行息子である。(秋林路)
筆者の記者生活は大学3年からなので約50年。これまでに一体どれだけの方とお目にかかったことか。その数を競ってもあまり意味はないが、記憶に残る出会いは意外に少ない。今回訪ねた小川建機(小川貴之社長)創業者の小川由行会長は、私と世代が近いことや、生まれ育ちに共鳴するところが多く、終生忘れることの出来ない取材になった。太平洋戦争で生き残った筆者の父は、広島の原爆を潜り抜けて帰郷、筆者と妹が生まれた。警察官上がりの父は曲がったことが大嫌いで、子供には倫理観を徹底的に叩き込んだ。筆者が悪の道にハマらなかったのは親父の家庭教育が影響しているように思う。小川会長の父君も子供達が自立出来るように、経済の仕組みを体験的に教え込んだようである。子供心に憧れたブラジルへの夢は社会に出る前に霧散し、自動車整備工場に入るが間もなく怪我で左目を失明する。金を貯める為にダンプの運転を始めるが、事故を起こして腕を骨折する。しかし、そのどん底でクレーン事業に活路を見出して大成功を治める。このサクセスストーリーを小川会長は「災い転じて福となす」と笑い飛ばす。70歳近くなった今でも「他人様の二倍働け」という父君の言葉を実践している。小川会長は世にも稀な孝行息子である。(秋林路)
今年10月1日(日)竣工した(株)小川建機の新社屋 (埼玉県日高市)
二段積みされている多軸トレーラー。奥の建物が新社屋向かい側の整備工場
創業して数年後には相当な台数のクレーンを整えた
労働と報酬を教え込んだ父君
□秋林路 私が新聞記者になって間もなくの頃(昭和45~6年)、大型クレーンを沢山保有している内宮運輸機工さん(東京・江戸川区)を取材しました。その時、日本にはまだ1台しかない超大型クレーンの説明を受けました。当時でもビックリするほど高額なクレーンでしたが、「このクレーンを導入したことで、大型クレーンを必要とする仕事は100%当社が受注できる。」と説明されました。その時、特殊車両にはそうゆう役割があることを初めて認識しました。乗用車は既にモータリゼーションに突入して、量産によるコスト低減を進めていましたが、商用車にはそういう世界があることを知って大いに興味をもったものです。小川建機さんは、同様の世界で大きく発展されましたので、会長にお目にかかるのを楽しみにしておりました。
先ず、生まれ育った辺りのことからお聞きしたいのですが、生家も本社(埼玉県日高市)の近くなのですか。
■小 川 はい、日高市の北になりますが、鳩山町というところです。父(小川武雄)は大きな農業を営んでいて、母(小川志ず恵)は武家屋敷の長女です。私は5人兄弟の末っ子です。
□秋林路 私も広島の農家の次男坊ですが、会長とそれほど年齢差はないので、戦後の貧しい時代に育ったのは同じだと思います。ご母堂の武家屋敷というのは、歴史がありそうですね。
■小 川 はい、大きな屋敷で今でも柔道・剣道の道場が残っていますし、敷地には土塀の蔵が幾つもあって、刀剣類も保存していました。
□秋林路 それは大変なお家柄です。父君もそういう家から嫁を迎えた訳ですから、相当知名度のあった方ですね。
■小 川 母はまだ存命で来年の1月28日に100歳になります。私は1日違いの29日生まれで69歳になります。父は大きな農家ですが、農協とかPTAとかの役員を多くやっていて、家に居ることが少なくて、農業は母に任せっきりで、よく夫婦喧嘩をしていました。母の仕事が大変なのは分かるので、子供達はよく母の手伝いをしていました。ただ、父は新しい物好きで、バイクや三輪車など近隣では一番早くに買っていました。私が自動車好きになったのもそんな親父の影響があります。
□秋林路 私の生家も昭和35年頃には耕運機を買っていましたが、それよりも少し早くオート三輪など買っておられると思います。
■小 川 子供の頃の私は、エンジン音が大好きで、農協には、くろがねやダイハツ、マツダなどの乗り物が沢山置いてあるので、放課後は入り浸っていました。すると農協のお兄さんが乗せてくれるので嬉しくてたまらなかった事を覚えています。それから家には耕運機がありましたから、荷車を繋ぐと自分で乗って運転できる。家は学校の近くでしたから、それに子供たちを乗せて送っていました。小学3~4年の頃だったと思いますね。
□秋林路 父君は子供たちとどのように接しておられたのですか。
■小 川 甘やかす事はしなかったです。夏になると自転車でアイスキャンディを売りにくるのですが、お金を持っていないから買えない。すると、父は芋畑の畝の草取りを命じて、一筋取ったら幾らと決め小遣いをくれていました。子供はアイスキャンディを食べたいので一所懸命草取りをする訳です。他にも養蚕業を営んでいたので、桑の木を育てるのに直径と深さ1m位の穴を掘るのですが、ひと穴掘ると幾らと決めて子供に掘らせる訳です。子供達は小遣いが欲しいので一緒懸命に穴を掘る訳です。
□秋林路 それは労働と報酬を子供に教えておられたのですね。
■小 川 他にも中学になるとパイロットの万年筆が欲しくなる。すると小さなうさぎを買ってきて育てさせる。1年そこそこで大きくなるので、食用に出すと一羽500円位で買ってくれる。二羽売ると1000円になるから万年筆が買える。高校になるとオートバイが欲しくなる。すると子豚を沢山買って来て育てさせるのですが、その豚は途中で病気になって全滅してしまってオートバイは買えなくなってしまったんです。でも親父は黙ってオートバイを買ってくれたんですよ。あの時の嬉しさは生涯忘れません。進路については言及しなかったけど、「お前は天才ではないのだから他人の二倍働け。そうすれば必ず飯は食えるようになる。」と口癖のように言ってました。
□秋林路 子供の頃に、進路は考えていたのですか。
■小 川 実は生家の近くの人がブラジルに移住していて、私が小学3~4年の頃に戻って、あちらの農業について「種は飛行機で空から蒔くし、収穫は丸ハンドルの大きなコンバインに乗って一気に刈り取る。」と話してくれました。その時の印象が強烈で、何でもいいから大きな事をやらないとお金は残らない。私は勉強してブラジルに行こうと決めていました。だから高校では農業を勉強していたんです。
□秋林路 しかし、現実には行かなかった…何故ですか?
■小 川 実は、高校を卒業する間際になってブラジルに移住していた人たちが郷里に戻ってきたんです。あちらは作つけも大規模ですが、悪事も大掛かりで、農作物を収穫する時期になると、窃盗団が大勢で押しかけて来て、持ち去ってしまう。苦心して育てても横取りされたのでは生計が立たないという事でした。それでブラジルに行く夢は敢え無く消えてしまった訳です。
□秋林路 それはショックでしたね~。でも結果的には行かなくて良かったという事ですね。
■小 川 はい。耕運機を含めてエンジンが載っている物が好きだったので、大型車の整備工場に入ったのですが、仕事中に金属が左目を貫通して、二度手術したけれども失明してしまったんです。それが21歳の時ですが、災い転じて福となす。私の大きな転機になりました。
自社で使用する目的で製作した重量品用トレーラー(小川建機はメーカーとして車検証に記載されている)
車両置き場で待機している最新鋭のクレーン車
車両置き場で待機している最新鋭のトレーラー
長大な風力発電の支柱部の輸送
風力発電の支柱部(一部)の輸送
据え付け現場に到着した長大で特殊形状のブレード
ブレード相吊り開始
到着した風力発電の発電装置部分 約85t
クレーンの移動
組立て作業に使用するクレーンの輸送
ダンプ事故で掴んだクレーン事業
□秋林路 片方だけと言っても失明ですから大変な災いですよね。
■小 川 実は、退院する時にはまだ大型運転免許の有効期限が残っていましたので、お金を貯めるために大型のダンプカーを買ったんです。
□秋林路 当時は「ダンプを10年やれば家が建つ」と言われるほど運賃が良かったようですね。
■小 川 そうです。今では厳しく取り締まられていますが、10トン車に40トンも積載して運んでいたので儲かる訳です。ところが私は、片目しか見えないので、運行中に乗用車と接触しそうになり、左に急ハンドルを切ったところ、高さ10mの路肩下に転落してしまったんです。
□秋林路 よく無事で戻れましたね。
■小 川 車内で腕は骨折したのですが、大事には至らなかったのです。それで、何はともあれ、ダンプを引き上げなくてはなりませんから、クレーン車を頼んだのですが、当時のお金で7万5000円の請求が来ました。その時に「これが人生を賭けた俺の仕事だ」と閃いたんです(笑)。
□秋林路 災い転じて福となすです。クレーンの代金が予想以上に高かったということですね。
■小 川 私はダンプで一日4万円位は稼いでいましたが、その倍近い金額です。腕は折れていましたが、クレーンが頭から離れない訳です。それで、昭和48年に結婚して、中古のクレーン車を1台購入して小川建機を立ち上げた訳です。ただ1台では仕事にならないので、その後半年でクレーンを3台購入しました。
□秋林路 結構な投資額になりますよね。仕事は幾らでもあったのですか。
■小 川 それまでダンプの運転手をしていた訳ですから、営業力もありませんでしたが、勇気を出して、鉄建建設と西武建設さんのジョイントベンチャーが進めている下水処理場の建設現場に名刺を配りに行ったんです。ところが、「ちょうど現場が終わったばかりで、直ぐに仕事はないが、近くで新しい現場が始まるので、名刺を置いてゆけ」と言われました。
□秋林路 飛び込み営業ですよね。なかなか勇気が必要です。
■小 川 こちらも必死でしたからね。でも、そのベンチャーが当社のクレーンを使ってくれたんです。それも大きな現場でしたから、3年間も続きました。クレーンも3台では足りないので、増やしましたが、現場が終わる頃には支払いは完了していました。
□秋林路 でも、素人営業で現場に飛び込んで3年間の仕事を貰ったのは奇遇でしたね。
■小 川 そういうラッキーな一面が私にはあるんですよ(笑)。現場は終末処理場の建設でしたが、使用する鉄筋が太くてクレーンで一本ずつ吊り上げる必要があったので、3年間も続いたんです。それが、小川建機のスタートですが、当時は全体にクレーンが足りなくて、昼は処理場の建設現場、夜は鉄道の現場と、昼夜を問わず仕事がありましたので、そういう面もラッキーでした。
自社使用の特殊トレーラーの製作を開始
□秋林路 ダンプの事故がキッカケでクレーン事業に移った訳ですが、特殊トレーラーの輸送を開始したのはいつ頃からですか。
■小 川 平成7年です。既にクレーンは沢山保有していましたが、物を現場に輸送する仕事も依頼されるようになりました。それで輸送部を発足しました。当時は特殊トレーラーのメーカーは何社かありましたが、結構高額でした。それで、当社で使うトレーラーは自分で造ろうと製造も始めたんです。
□秋林路 確かに、トレーラーは複雑なエンジンは搭載していませんが、ナンバーを必要とする車両ですから、それなりの技術が必要だと思いますが…。
■小 川 俺なら造れる、という自信があったのです。といいますのは当時アメリカで流行っていた大型の“フォーミュラーバギー”を趣味で作って走っていたからです。これは高度な技術が必要です。ですから、車体は大きくても特殊トレーラーを製作する自信はあったのです。
□秋林路 自分で使うトレーラーは自分で造る、という事ですからユーザーがメーカーの役割も兼ねる事になります。極めて稀なケースですね。
■小 川 実は、当時はトラクタの能力が足りなくて、トレーラーも積載能力が限られていたんです。ところが、当社が輸送部をつくる頃になって第5輪荷重が20~23トンの大きいトラクタが出て来ました。だから積載能力の大きいトレーラーを内製し、他社を差別化することも出来たのです。
□秋林路 道路を走る車両ですから、テストデータとか、登録も必要ですよね。
■小 川 そういう点は日産ディーゼル(現在のUDトラックス)さんが全面的に協力してくれました。ですから、16輪の50トン積載車なども自社生産できたのです。ちょうど過積載の取り締まりが厳しくなった時期でしたが、当社製は積載能力が大きいので過積載にならない。過積載は荷主責任も追及していましたから、大きい荷物は当社に殺到したんです。これもラッキーな一面でした。
□秋林路 私は殆どのトレーラメーカーは訪ねた筈ですが、小川建機さんがトレーラーメーカーだという認識はなかったです。
■小 川 それは他社に販売していなかったからです。車両は使っていると壊れるしメンテナンスも必要です。まして他社が製作した車両ならクレームをつけたくなるのが人情です。でも他社に販売しなければ文句を言われる事もない訳です(笑)。これまでに20数台のトレーラーを造りましたが、構造的に弱い部分も判りますから、使い方も壊さないように使うし、壊れても自分で造った車両ですから、修理も容易にできます。ですから、一般にも当社がトレーラーを製作している事は知らないと思います。
□秋林路 使用者が自分でトレーラーを造るメリットはどういうところにあるのですか。
■小 川 現在でも特殊トレーラーは非常に高価です。それは量産する程の需要がないので、開発費や諸経費が全てオンされるからです。でも、当社で製作すれば材料費だけで済みます。社員にも経験と知識が備わるのでプライドが出来てきます。ローンを組まないので月々の車両費もかからない。それは大きなメリットです。
□秋林路 トレーラーは全体が鉄の固まりのような物ですから、原価も安いと思います。
■小 川 車軸とかキングピンとか、機能部品が幾つかありますが、トレーラーメーカーから購入する事を考えれば大幅なコストダウンです。
□秋林路 それは凄いことです。ユーザー自身が物づくり出来れば輸送業者の立場が有利になるのは当然です。
■小 川 当社のトレーラーの車検書のメーカー欄に「小川建機」と書いてあるので、荷主がビックリした事がありました(笑)。
製作中のバギー(フレームが完成、床を張ってエンジンを搭載する段階)
完成した小川会長手造りのバギー
運転席に座った小川会長(2017年9月15日)
アメリカ最大のバギーレースに参戦(40歳頃、ラスベガス)
スタート前の小川会長
事業発展の要因は“地の利”
□秋林路 御社は創業して40数年ですが、一番の発展期はいつ頃ですか。
■小 川 浮き沈みは色々ありましたが、やはりここ20年間が一番良かったですね。中でもこの10年で規模は3倍になったと思います。大型クレーンも増やしたので、この本社だけでも550トン吊りが4台あります。これは国内でも最大です。
□秋林路 クレーンのメーカーと機種選定はどうやって決めるのですか。
■小 川 やはり仕事の内容です。例えば、現場がタダノの○○型じゃないと使えないとなれば、タダノの製品を購入するしかない、という形で増える訳です。
□秋林路 最近のメインになる仕事はどんな分野ですか。
■小 川 ここ10年間で申し上げますと、風力発電の関係が一番です。とくに、この仕事はブレートの輸送から据え付け、メンテナンスまで全てを請け負っていますから、受注金額も大きい訳です。
□秋林路 風力発電は地球温暖化対策もあって国も積極的に取り組みましたから、大きな市場になりました。
■小 川 最近は風力発電の他にも橋梁の輸送が伸びています。橋はまだ暫らく続くと思います。
□秋林路 重量品輸送も時代と共に変化していると思いますが、小川建機さんが常に業績を伸ばしている一番の要因は何ですか。
■小 川 “地の利”だと思いますね。この事業は車両置場として広い敷地が必要です。幸いこの地域(埼玉県日高市)は、広い土地が沢山あるので、幾らでも事業が拡大できます。
□秋林路 現在、車庫用地はどれくらい所有しておられるのですか。
■小 川 7ケ所で約3万㎡です。本社の社屋も駅(JR川越線の武蔵高萩)から歩いて来れる位置に今年10月1日に完成しました。
□秋林路 この特殊トレーラーはメーカーも限られていますが、どんな事を期待しておられますか。
■小 川 私はトレーラーを製作して来た人間だから原価が分かるんですよ。だからユーザーの立場からすると何でこんなに高いのか、と思うけど、台数がそれほど出る訳でもないから、高く売らざるを得ないのかも知れないね。
□秋林路 物の価値は機能とか役割と関係があるので、判断が難しいですよね。
■小 川 そういう事です。結局、車両価格は高くても、荷主が仕事に見合う代金を支払ってくれれば、成り立つ訳です。
□秋林路 とくに小川建機さんの場合は設備をどんどん増やして来られたので、仕事も集中するのでしょう。
■小 川 実は、ひと昔前まで当社のような会社は関東以北には殆どなかったんです。東北の仕事でも関西からフェリーで仙台あたりまで来て仕事をするので、コスト高になります。ところが、当社は東北でも距離的に有利ですから、関西の業者より3割安くても利益が出せる。そうなると遠方の業者は太刀打ちできなくなる訳です。
□秋林路 確かに大きな車両ですから、遠方だと移動にコストがかかります。
■小 川 当社は24軸のユニットキャリアも所有していますから、どんなニーズにも対応できます(笑)。
□秋林路 私は、物づくりの立場でトレーラーや特装車のメーカーを広く取材して来ましたが、最近少し疑問に思っている事があります。例えば、トレーラー型の車両運搬車はメーカーがほぼ一社に絞られていますから、生産が集中して納期がとんでもなく長くなっています。他にも同様な車種は多いのですが、生産能力が小さいと生産が間に合わなくなってしまいます。ところが、バブル崩壊やリーマンショックのようなトラブルが発生すると景気が低迷して、需要が落ち込んで経営を維持できなくなってしまいます。これはメーカーにとってもユーザーにとっても不幸な事です。この分野はほぼ成熟産業になっていますから、新しい技術もそれほど出て来ないと思うので、ユーザー自身で経営できるメーカーを立ち上げれば良いのではないかと思います。場合によってはユーザーが共同出資してメーカーを買収しても良いのではないかと思います。
■小 川 トレーラーに限って申しますと、日本には優良な部品がないんです。だから輸入することになるのですが、日本だと高くなるので、中国とかで欧州の部品を輸入することになるんです。欧州製品はグローバルに世界中に出ているけれども日本製は無いに等しいから戦えない訳です。
□秋林路 なるほど、ユーザーが物づくりに乗り出すにしても条件が悪いという事ですね。そういう意味では日本のこれからの物づくりは相当厳しい時代に直面するのではないかと思います。ただ、幸い先進国の仲間入りをしているので技術力は持っています。この力を発揮するのは必ずしも日本国内に限らなくても、これから伸びる可能性の高いASEANに向けても良い訳ですよね。
■小 川 実はそういう事を想定して、いまASEANから5人の研修生を迎え入れているんです。我々が進出すると抵抗がありますが、日本で学んだ研修生が母国に戻って事業を起こせば抵抗はありません。我々はそのノウハウと技術を提供する形で支援する事を考えています。
□秋林路 ASEANは10カ国ありますが、色々な面で大きく立ち遅れています。その意味では期待もあるけど不安も大きいのが現実ではないかと思います。
■小 川 当社は輸送を始めた時に、廃車されるトレーラーを買ってきて、自分で修復して使うことから始めました。勿論、他社の人の何倍も働きました。その若い時分の経験が後になって活きてくるんです。
□秋林路 昔から「餅は餅屋」という言葉があって、専門分野はお任せという考え方があります。
■小 川 基本はそういう事だけれども、本気で物づくりも繰り返し同じことをやっていると、自然に出来るようになるものです。溶接一つにしても“音”で上手に出来たがどうか分かるようになるんです。重量品輸送の良いところは、トラクタだけ買えば良い。トレーラーは荷物に合わせて自分でも造れるところです。一般の運送は、荷台も一緒に買わないと仕事にならないですからね。
過酷なパリ~北京レースにはトラックで参戦
途中で壊れてもドライバー自ら修理しなければならない
パリ~北京レース。ミッショントラブルの修理の様子
俗に「飛行機の墓場」と称される場所で記念撮影
砂漠で育ったスイカの甘さは生涯忘れられない
趣味と実益を兼ねたラリー参戦
□秋林路 トレーラーをご自身で製作されているので、その点は説得力があります。ところで、一代でここまで築き上げるのは大変だったと思いますが、趣味やスポーツはいかがですか。
■小 川 ゴルフは一時期やったけれども、片目だからグリーンの距離もアップダウンも分からないので、パターが入らない。結局諦めました。徹底して打ち込んだのは自動車のラリーです。
□秋林路 パリ~ダカといったラリーですか。
■小 川 私はパリ~北京ですが、最初はバギーです。国内では河原で走っていたのですが、規制が厳しくなったので、仙台の利府町という場所に谷間を利用した一周1㎞位のバギー専用コースを作って走っていました。
□秋林路 バギーはテレビでしか観たことないですが、アップダウンの激しいオフロードを走るレースですよね。
■小 川 そうです。でも私は走るだけじゃなくてバギーの製作もやっていました。
□秋林路 手造りですか。
■小 川 そうです。パイプでフレームを作って床を張り、エンジンとミッションを載せて駆動系からタイヤを回す。オフロードですから、長尺のサスペンションを14本も使って、床を高くするのですが、全て手造りですから思い通りにはいかない。それも面白いのです。
□秋林路 バキーは海外でも走ったのですか。
■小 川 はい。印象に残っているのは、アメリカのラスベガスで開催される「ミント400」です。世界中から大型の手造りバギーが持ち込まれて、一周100マイル(約160㎞)のコースを4周する過酷なレースです。コースは石ころだらけですから、床が低いと走れない。だから長尺サスペンションで高くするのですが、エンジンとミッションの組み合わせとか、それぞれ創意工夫して参戦するので、そういう車両を見るのも楽しいんです。
□秋林路 パリ~北京はバギーではないですよね。
■小 川 パリ~北京はトラックです。大変過酷なラリーで、コースを外れると命取りにもなりかねませんからチームを組んで走りますが、車両が壊れても自分で直すしかないから、目的地に到着しても休息している訳にはいかないんです。
□秋林路 パリ~ダカは日野自動車が菅原親子で参戦しているので、毎回記事に取り上げていますし、トラックショー説明会の記念講演に菅原義正さんに来て頂いた事もあります。どういうキッカケでラリーを始めたのですか。
■小 川 2002年と2003年のパリ~ダカで、篠塚建次郎さん以来日本人2人目の総合優勝を果たした増岡浩さんの出身地がすぐ近くで、彼は私よりも10歳下だけれども、子供時分には川でオフロード遊びした仲です。そんな事もあって、パリ~北京に参戦することになったのですが、とても良い経験になりました。砂漠の真ん中で食べたスイカの甘さが忘れられませんね(笑)。
□秋林路 ラリーに参戦している時は仕事はお休みですか。
■小 川 会社は動いているけど、私は2週間から一ヶ月半位も休む事になります。でも普段は仕事を終えてからラリーの車を作っていましたから夜中2時、3時になることも普通でした。他人様の二倍働いて来たので、不規則な時間には慣れているんです。
□秋林路 自社で使用するトレーラーも手造りですから、趣味と実益を兼ねているという事にもなります。会社はご子息が継いでおられますし、社屋も新しくなって順風満帆ですね。
■小 川 いえ、まだ課題も沢山あります。しかし、ここまでは恵まれた人生だったと思っています。これを人徳するなら両親に感謝です。
□秋林路 私も70歳にして課題山積です。第4次産業革命とも言われていますが、自動車のEV化も急速に進むと思いますし、AIの進展でこの先の変化も予想出来ません。お互い健康に留意して活動したいものです。本日はお忙しいところ有り難う御座いました。
トンネル内を輸送する風力発電のブレード(羽根)部分
39メートル級ブームと閉回路方式油圧システムを搭載、国内最高ブーム長と吐出量の新型「ピストンクリート」発売
極東開発工業㈱は、このたび国内最長(国内法規を満たした公道走行可能車両)となる39メートル級のブームと、国内最大の吐出量を実現した閉回路方式油圧システムを採用したコンクリートポンプ車「ピストンクリートPY165-39」を開発し、2017年10月17日に発売した。
協調領域でリソースを捻出し、“ラスト産業”である自動車産業を変えたい
世界的に自動車産業が大きく揺れている。要因のひとつは電気自動車に対して欧州や中国、インドなどが期限を切って促進を表明したこと、もう一つはAI(人工頭脳)の急激な進展と自動運転の実用化が国際レベルで検討が進められていることが背景となっている。環境問題やエネルギー問題もあるし、そもそも社会における自動車の役割も大きく変化の時代を迎えている。では、日本はどう対処するのか。行政でそのキーを握るのは経済産業省である。もと経済産業省官僚の伊藤慎介氏が同省自動車課の河野太志課長と語り合った。
日本リフト(株)
軽量・コンパクト設計の新型リフトマンLA型リフトマンで培われた技術を軽量・コンパクトな設計で製品化し、アルミプレート仕様で自重348㎏を実現。低床車、オーバーハングの短い車両への架装が可能です。架装対象のフレーム幅が700~870㎜と、従来リフトマンより50㎜狭いフレーム車両に架装可能。リフトマンが架装できる車両が増加しました。リフトマンの高いリフト能力、1000~2000㎏を継承し、テールゲートリフト自重の軽量化を実現したことで、積載量の確保に貢献できます。